高村光雲が暮らし、

高村光太郎が育った跡に建つアパート。

左隣は「旧安田楠雄邸」、右隣は「宮本百合子」旧居跡です。

「森鴎外旧居跡」「夏目漱石旧居跡」も徒歩数分の距離。

木彫家・高村光雲は、岡倉天心の誘いで東京美術学校(現・東京藝術大学)で教鞭をとることになり、それまで暮らしていた浅草近くから千駄木5丁目155番地(当時の番地)に移り住みました。

ここなら、徒歩で美高(当時、藝大はこう呼ばれていました)に通えるからです。

 

長男・光太郎が10歳、次男・豊周が3歳の年でした。

高村光雲・光太郎の自宅があった千駄木5丁目155番地

それが、正に「155番館」が建つ土地です。

詩人・彫刻家の高村光太郎は「155番館」が建っている場所で育ったのです。

 

光雲はもちろん、長男の光太郎、次男で鋳金家・豊周もここから歩いて美高に通い、後に藝大の教授になった豊周は生涯徒歩で行き来をしていました。

 

オーナーは光雲の孫、光太郎の姪。

高村光太郎・智恵子の間には子供がいなかったため、弟の鋳金家・高村豊周の子供・孫達がこの地にいまでも住んでいます。

高村光雲が選んだ土地を100年以上・4代に渡り守り続けています。